着火剤

「ごめん、まった?」
「ううん、そんなに」
 Bが待ち合わせ場所について30分、待ち合わせの予定時刻からはすでに15分ほど経過していた。それでも遅れてやってきたAをみて文句など言えるはずがない。
 自慢の金髪は完璧にセットされており、彼女の好みだという赤を基調としたコーデイネートもばっちりと決まっていて、100人が100人、彼女の姿を見たら本命のデートに向かう最中だと答えるであろう。彼女を待った大抵の人間は、この時点で遅れてきたことよりも私との約束のためにここまで準備をしてきたのかという事実に感動を覚え、怒るどころか、まずどこを褒めようかという思考に切り替わってしまうほどだった。たとえ野暮用であっても、時間に遅れるとしても、自身の納得行くまで格好を整えてからではないと表にはでない。これがAの主義であり、そういう態度で今まで多くの人間の心を掴んできたタイプの人間だった。
 適当に喫茶店に入り、共にアイスコーヒーを注文する。チェーン店でメニューにこだわる必要はないというもの、彼女の持論だ。Bはそんなこだわりどころか、普通のふるまいもしらないので、とりあえず彼女を真似て注文を行う。
 Aは、アイスコーヒーのストローをくるくる回しながらさっそく一方的に話し始めた。おそらくサークルを辞めていった男のことだろう。Aはその男と付き合っていて、Aからフる形で関係を終わらせて、その直後に彼はサークルを辞めていった。
「わたしからいわせると、常に将来を見据えた感じが気に食わなかったのよね。自身が堅実な存在であることをアピールするのに終始してた。席の着順とかドアを開けたりとか、わかりやすいところだけ仰々しく気を利かせて、肝心の会話が面白くない。今を楽しくしてくれるわけじゃなかったのよね」
 Aは育ちと容姿の良さもあって、いいよってくる男は後を絶たない。Aに絡んでくる男はたいていエリートコースを歩んでおり自信満々なのだが、デート中であっても不満を隠さず、自身に甘えてくることもないAの態度に徐々に自尊心が削られていき、最終的に根をあげた男がフるか、疎遠になってからAが新しい相手を作ってフって終わるというのがお決まりの展開で、今回も例に漏れない。
 男と親しかった友人が励ましを兼ねて飲みに行った際、男は「フッてくれてたときホッとしたのは初めてだった。女付き合いが怖くなっちまったよ」と酒が運ばれてくるたびに口にしていたそうだ。
「なんていうか、私にいいよってくるならまずは一方的な態度をやめてほしいわ。相手が計画か即興かも知りたくないような寒い演出を伴った行動を起こす、私が喜ぶか不満をみせる、の繰り返しばかり。私の好感度が高くなったと思いこんで、すぐにホテルチャンス開始。恋愛ゲームならポイントを稼げる行動なのかもしれないけど、これはゲームじゃないんだから。って、あー……ごめんね。辛気臭い話はやめよっか」
 Aはアイスコーヒーを啜ると、ため息をついて、話を切り上げた。そして、さっきからずっとニコニコしながらAの話を聞いている相手に、話題を預けた。
「Bは最近なんかあった?」
「さっぱり。今日、Aさんと喫茶店に来たのが久しぶりの社会的活動、かな」
 話を振られたBは、アイスコーヒーから口を離して、照れ笑いのような表情をしながら答えた。Bの顔には守ってあげたくなるような愛嬌がある。
 AとBは中高の同級生で、AがBを誘う形で二人で喫茶店で話をすることがある間柄だった。中学のとき、Bにつきまとっていた男との関係を断ち切ってあげたことがきっかけだった。その後、Bがやたらとなついてきた。Aに助けられたときの、涙で目を潤ませながら上目遣いでBが言い放った「Aさん、とってもかっこいいです」が殺し文句となり、AはAで、同性には目の敵にされやすい性格だったため同性として初めて懐いてきたBのことがどんどん気にかかっていった。以来、AとBは仲の良いの友人として関係を続けていた。さん付けなのはBの希望だった。
 Bは非常に内向的な性格で、大学こそAと同じだがサークルにも所属せず、講義室ではいつも隅に座っている。入学直後には活発なAと交友をもっていることを知られ、Aの周辺の人物からもたびたび勧誘があったが、1ヶ月後には脈なしとして、すっかり一人になっていた。だがAのように一度懐いた相手にだけ見せる控えめな笑顔や流し目は庇護欲をそそり、Bの家族はBのことをとても良く可愛がっているという。
「そっか。もう少し外に出たほうがいいんじゃないかなっていうのは、おせっかいか」
「一人で外に出ることはあるけど、誰かと関わるとなると、Aさんが誘ってくれるときだけですね。それは、高校時代から変わってないです。……そういえば、なんでAさんはこうして私を誘ってくれるんですか? Aさんなら他にいくらでも予定を作れるはずじゃないですか」
 Bはおずおずと、語尾にゆくにつれて声量を小さくしながら尋ねた。
 私はBのこうした質問があまり得意ではなかった。文章からにじみ出る自己評価の低さはフェイクで、Aが決して自身を否定しないという確信がこめられているのだ。不安そうな口ぶりも、無意識に行っているものだ。Bとは中学の頃からの付き合いだからもう7年になる。もう少し、友人らしく、男と付き合うときのように直線的に言ってあげるのもいいかなと思ったときもあったが、いざ相対すると彼女の子犬のような視線に負け、やはり決して傷つけてはなるまいと、彼女の火薬をつみあげたような繊細な精神構造を崩してはなるまいと、本音の中から特に甘い部分を掬い取って慎重に言葉を選んでしまうのであった。
「私は彼には刺激を求めるけど、友達には平穏を求めてるの」
「じゃあ、私はAさんに平穏を与えてるってこと?」
「……そういうこと」
 Bの両頬がほのかに赤く染まったのを見て見ぬふりして、Aはトイレに向かう。
 友達で、満足なのか。
 Aは化粧を直しながら、Bとの先ほどのやりとりを考えていた。
 Bが私に対して好意を、友人関係以上の好意を持っていることはとっくの昔に気づいている。にもかかわらず、そんなBに対して、私は言い寄ってきた男と付き合うようになり、恋愛遍歴を聞かせている。それをニコニコと聞き流し、友達としての関係に甘んじている彼女の腹の底が正直読めない。
 幾度となく男と付き合っては肌を重ねてきたAの経験上、彼らはすぐに私に対して何からのアプローチを仕掛けてきたものだ。共通の友人を経由して連絡先を手に入れたり、外堀をうめ一対一になるように仕向けたり。「あとで焼き肉奢りな!」というメッセージが私のアカウントに届いたときは思わず笑ってしまったが、その男とはそれがきっかけに付き合うことになったりもした。煩わしいことも多かったが、わかりやすくはあった。
 Bに関しても、この状態が続くのであれば「好きです、抱きしめて欲しいです」と濡れた目で迫ってくれたほうがよっぽどありがたい。Aも、迫られて断ることはないだろうなとぼんやり自覚していた。
 彼女の内面には、すでに爆発寸前の大量の火薬が詰め込まれている。彼女の理性が強いのか、私を信頼しきっているのか、これまで仕草として表出したことはない。だがほうっておくと大変なことになるに違いない。私がBを助けたあのとき、Bのカバンの中に包丁が入っていたことは今でも覚えている。今みたいに、定期的に喫茶店で話しているだけではいずれ爆発するかもしれない。彼女が火薬なら、自身が炎になって、安全な場所で起爆させなければ。
 だが、その覚悟は自分にあるのだろうか。そんな消極的な関係でいいのだろうか。それで彼女に眠る莫大な火薬全てに火をつけることは可能なのか。受け止め傷つく覚悟はあるのか。そう思うと、今までどおりの無難な関係に終始してしまうのだ。
 Aが席に戻ると、彼女の頬の色はいつもの白さを取り戻していた。
 その後、当たり障りのない会話をして二人は別れた。

 きっかけは意外なことに、それからすぐの、秋の夜であった。
 サークルの飲み会で酔いつぶれたAと、書店で買い物をしていたBがたまたま遭遇したのだ。
 Bを見つけたAは朦朧としながら、Bの身体にもたれかかり、それをみたサークルのメンバーは厄介事はゴメンだとばかりにBにAをたくしてしまった。Aを放っておくわけにもいかず、Bはすぐにタクシーを呼んで、Aを自身の家に連れ込むことにしたのだった。
 自宅についてからBは、酒と煙草と喧騒の染み付いたAの身体を、お湯を染み込ませた絶妙に温かいタオルで丁寧に拭いていった。酒を飲まないBは、飲酒後に暑いシャワーを浴びるのはよくないという知識をネットで仕入れたのだろう。駄々をこねるAの服を辛抱強く脱がせ、全身が露わになるたびに頬を染め、目を逸し、秘部が視界に入れば目をギュッと瞑っていた。彼女の身体を撫でるタオルはどこまでも優しく、Aに対する尊敬と好意がにじみ出ていた。
 ああ、どうしてそんな必死に自分を律しようとしているのか。彼女はこの状況でも、自分から手を出すことは出来ないんだな。そうやって押し潰されて限界になってしまうんだな。
 Aは、そんなBの介抱のいじらしさをみてたまらなくなり、Bを押し倒す。
「Bちゃん、なんてかわいいの……」
 Aは両手でBの頬を撫でながら囁く。Bは頬を真っ赤に染めて、小さい体をさらに丸めながら、絞り出すように声を出した。
「Aさん、わたし、Aさんからみて、かわいいんですか……?」
「うん……とってもかわいい……Bちゃん、抱いていいかな……」
 Bはその言葉をきくと、夢の中にいるような、とろけきった表情を浮かべた。 「Aさん、とてもかっこいいです。今日だって朦朧としているときも、私が肩を貸しても一人で歩けるぞって、私より大きな歩幅で歩こうとするところとか、ほんとうにもう、かっこよくて……」
 それ以上は待てなかった。言葉を続けようとするBの口を強引に塞いだ。彼女は目を閉じてAを受け入れた。何をまごつく必要があったのだろう。Bは7年もの間、ずっと私を待っていたのだ。ずっと私に好意を抱いていたのだ。男を引っ変えとっかえしては喫茶店で不平不満ばかり口にするような女を、格好いいと思い続けてくれたのだ。それに応えずして、なにが「格好いい」だ。何が火薬だ、炎だ、消極的な関係だ。どの口がそれを言うか。
 Aは女性とのセックスはしたことがなかった。が、過去の男にされたことを思い出しながらするのはすぐにやめた。それは格好良くないだろうと思った。そうでなくても、AがBの性感帯に触れるたび、内面に溜め込まれた火薬が勝手に着火しては爆発し、嬌声となって現れていたからだ。
 彼女の中の火薬は爆発するたびに、ベッドのきしみになり、シーツの乱れになり、飛び散る汗になり、身体のぶつかりあう音になり、首筋のキスマークになった。Aが眠気に負けそうになるたびに、Bが「足りないよう」と耳元でねだるように囁いた。そのたびにAの脳天から足先に火が灯る。それは、一瞬で炸裂して消えてしまう火薬にしてしまうのは惜しいものだった。
「ああ……Bちゃん……ちょっと眠らせて……」
「Aさん……やっぱりかっこいいです……わかりました、目が覚めたら、また続きをはじめましょう」
 体力の限界を迎えたAの頭を撫でながら、Bは子守唄の代わりに、Aの好きなバラードを口ずさんだ。
 おいおい、その歌詞は、結構重いぞ……。
 薄れゆく意識のなか、Aは心の中にごうごうと、これまで経験したことのない大きな炎が上がっていくのを感じていた。

Something covered something.

今日はAにとって可もなく不可もない日だったが、やっぱり深夜0時に眠剤は飲んで、すでに10分が経過した。

Aはその間、ずっとはベッドで仰向けになりながら天井を眺めたり目を閉じたりしていた。

毎晩飽きることなくやってきてはAを引き込もうする過去のハイライト集(映像付き)も、今晩は大したことなかった。

そうしているうちに関節を起点に、少しずつ全身へ次第に広がる人工的な倦怠感がやってくる。直径8mmにも満たない錠剤の、実に手際のよいエスコートにゆるりと身を委ねようとしたとき、Aの部屋のドアを叩く鈍い音が聞こえた。

「生きてるー? ねえ、生きてるー?」

この声は、彼女の一個上の部屋に住むBで間違いない。

声よりもむしろ、深夜Aの部屋にこういうことをする人間はBしかいないという前科が、判定要素の大半を占めていた。

社会人のAに対してBは大学生。年は4つ離れていたが、お互い田舎を離れて一人暮らしをしているという共通点や、何よりお互いコミュニケーションに飢えていたこともあって、さして障壁にならなかった。親交は加速度的に深まっていった。

「あれ……これやばいかも。救急車よぼうかー?」

ドアのそばの呼び鈴には目もくれず、Bの発する音は増すばかりだった。ドアを叩くというよりは殴っているのではないか。

生存確認という掛け声のカテゴリも非常に質が悪い。このままでは単に騒音で近隣の迷惑になるどころか、Aに異常者のレッテルを貼られかれない。

ひとまずBを止めなければと、Aは慌ててベッドから身を起こす。

しかし地面についた両足に力をこめると、意図しない方向によろめいて尻もちをついてしまう。

こうしている間にも眠剤はゆっくりと全身に溶け出しており、Aの意識を奪おうとしているのだ。

Aはドアまで行くことを断念して、かわりにドアに向かって叫んだ。

「合鍵!この前渡したでしょ!」

ドアを叩く音が止まってから数分後、Bが入室した。片手に酒缶が何本か入ったビニール袋を携えていた。

「それにしてもB、いきなりどうしたのよ。……うわ、酒くさ」

Aは思わず顔をしかめた。Aは付き合いであっても最初の一杯で限界になる程度には、酒に強くない。連休の初日には、今日のように酒を携えたBに潰されることも多かった。

「いや、ちょっと死にたくなってたから、Aちゃんに会いたくなって。Aちゃん、もう飲んじゃった?」

「飲んじゃった」

BはAが眠剤を常用していることを知ってから、メンヘラワードを気軽に言うようになった。それがAへの配慮からくるものなのか、Bの本心からのものなのかはわからなかったが、 少なくともAにとっては、Bとのやり取りがより心地よいものになっていた。

「じゃあ、こっちも飲ませないとね」

Bはビニール袋の中からAの好きなチューハイを取り出し、空けた状態で手渡す。

やっぱりか、Aは思う。心地よさが急速に冷めていく。

「今日は飲まないわよ、飲んだばかりなんだから」

眠剤とアルコールの取り合わせは非常に悪く、同時に摂取すると酔いと倦怠感と眠気の症状が増幅された症状が現れる。悪いことが重なりどん底な時期に、自暴自棄になりなが同時に摂取したことがある。気づいたときには部屋中のモノが、特にお気に入りのモノだけを残して滅茶苦茶に荒らされていた。このときAは、自身の奥に眠る暴力性に恐怖し、二度とやるまいと思っていた。

「そんなこといわずに。ほら、明日も明後日も休みでしょ? 今日と合わせて3連休。絶好の飲酒日和だと思わない?」

「飲まない。あと10分遅かったね。」

Bは、チューハイを差し出す手を降ろさないまま、もどかしそうな表情を浮かべた。

「ううん、遅くないよ。むしろこの10分間が最高のタイミングなんだ。Aちゃん、本当に覚えてないんだね」

突然トーンダウンしたBの言葉に驚いたAはその意味を考えこんでしまった。Bには既に、アルコールと眠剤を同時に摂取したときのエピソードも話している。悲惨だったことも。私がとても後悔したことも。それなのに、なぜ勧めようと――。

隙を見つけたとばかりに、Bは「うへへー」と笑いながら、チューハイをAの口に当てる。

流し込まれたチューハイが、Aの舌をつたって喉に流れ込んでいく。甘味料のあからさまなレモンの香りが鼻を通り、次第に粗悪なアルコールの苦味で舌が塗りつぶされる。すぐにBを腕で払い口を離したが、Aの体内には十分なアルコールが流れ込んだだろう。

「やめなさいよ。以前、お酒と眠剤を同時に飲んでどうなったかは話したでしょ?」

Bの無遠慮な行為に怒りを感じたAは、鋭い目でBを問い詰めた。そんなAの目を臆することなく見つめながら、Bは答えた。

「知ってるよ。実は、話される前から。あのときね、Aちゃんが一人でお酒と眠剤を同時に摂取した日。わたし、途中からAちゃんの部屋にいたの。本当に、すごく、すごく嫌なことがあってね、お酒でも飲んで気を紛らわせたいなって思って。そしたら、ものすごい勢いで机の上のものを薙ぎ払ったり、紐や棒を地面に仕切りに打ち付けているAちゃんがいた。あんなに怖いAちゃん、みたことなかった。人くらい平然と殺せそうな目だったよ。でも何故か私はそんなAちゃんから目が逸らせなかったの」

Aは、Bから目をそらせなかった。Bがあのときその場に居合わせていた事実に驚いたのもあったが、なにより今、Aを見つめるBの視線そのものに釘付けにされていた。Bの目は潤んでいた。

「あのあとAちゃんはね、私をみつけたの。ああ、殺されるのかなって。そう思った。でも私一歩も動けなかった。恐怖で動けなくなったというよりは、受け入れちゃった。でも私は今ここにいる。つまり、Aちゃんは私を殺さなかった。壊していたモノを優しく地面に置いてから私の肩に手を載せて、さっき置いたモノの何倍も優しく、私をベッドに押し倒したの。そのときのAちゃんの表情は、モノを壊していたときのそれとは真逆の、本当に優しい顔でとても綺麗だった。それから、Aちゃんはまたモノを壊し始めた。ベッドの上にもモノが沢山置いてあった。あのあとAちゃんから、大事なものだけ先にベッドに避難させていたことを聞いてすごく嬉しかった。わたしね、それから死にたくなったときはいつも、あのときのことを思い出していたの」

「……それで、今も死にたくなってるから、私に同じことをしてもらおうとしてるの?」

「……そう」

あまりにも歪んだ慰めの形式だ、とAは思った。しかし、自身の中でトラウマとなっていた記憶がBにとっては救いともいえる出来事になっている。この事実は動かしようがない。Aは今、自分の善悪の基準が非常に曖昧になっていることを自覚した上で、切り出した。

「今度はどうなるかわからないよ」

「どうなっても、いいよ」

Aは大きく深呼吸をしてから立ち上がると、ふらついた足取りで救急箱のある棚に向かった。身体は重く、今すぐにでも意識を失いそうだった。数回の試行で救急箱をあけることに成功し、眠剤をもう一錠手に取ると、手元の酒で飲み下した。

「逆に、Bちゃんを殺しちゃうかもしれないね。可愛さ余って憎さ百倍ってやつ」

「それ、微妙に違うと思う」

「今の私に、細かいやり取りができると思わないで」

数分後、Aは頭の中が濃い靄で覆われたかのような感覚に陥った。自身の脳内であるにもかかわらず、思考が濃い靄のせいで迷子になってしまい頭が働かない。理性をほとんど失いつつあったAは、直前の光景だけでもしっかり記憶するために、部屋を見渡し、最後にBに視線を向けた。 Bの表情は陶然という言葉がぴったりで、いかにあの出来事がBにとってどれだけ大きいものだったのかを物語っていた。あのとき、BにとってはAはヒロインだったのだ。そして、Bはヒロインの再来を求めている。

あれ、私は? Aちゃんは私だけど、アルコール眠剤女は私なの……?

迷子になった思考がランダムに、脳を駆け巡る。降って湧いたような問いに、なぜか笑いがとまらなかった。

ひとしきり笑ったあと、AはBに向かってゆっくりと歩き出した。Bは、Aを見つめながらただじっと待っている。

Bは、とっくに動けなかった。Aの部屋に入ったときから、既にアルコールだけでなく錠薬を摂取していたのだ。Bの部屋に転がる錠薬のことを、Aは知らない。Bの胸にちくりとした痛みが、走ったような気がした。

しかしAに扮したアルコール眠剤女の箍の外れた表情を見た瞬間には、Bに扮したアルコール眠剤女も全てを忘れ蕩けきった表情を浮かべていた。

私ね、昔――。

穏やかな表情で語ろうとする彼女とは対象的に、私は険しい表情をしていたと思う。

それは、これから語られるであろう彼女の実に同情的な過去に対して模範解答をしようと備えたものではない、自然に作られた表情だった。

相手の過去を知ることとは、すなわち、その相手との距離感を明確に定められてしまうことに他ならない、と私が考えているからであった。

過去の彼女を、今の自分で裁量することを強いられてしまう。

今の彼女が何であれ、だ。

本質的に、人は過去を捨てられない。

染み付いた先入観は、表面的な行動では取り繕えるかもしれない。だが、生理的反応まで錯覚させることはできない。

これまで愛おしいと思っていた、彼女の体表に浮かんでいる傷を愛せなくなるかもしれない。

過去を語る側は身勝手だ。

それで相手との距離を極限まで縮めることが出来ると確信しているから。

距離が縮むことイコールより深い情愛であると信じ込んでいるのだ。

彼女がどれだけオナニーをしたところで、私は欲情しない。

結局のところ、私も彼女の傷をみて、あれこれと自分に都合の良い考えを巡らせているだけなのだ。

私達の関係は、初手の段階で間違っていたのだ。

彼女もそれを自覚したからこそ、こんな博打を打ったのかもしれない。

私は、煙を薫らせながら適当に相槌をうつ。

本当に身勝手なのは、どっちなのだろうか――。

おつかい

深夜、私はコンビニへ向かっていた。同居している彼女が、どうしても今日受け取らなければならない荷物があるのをすっかり忘れていたらしい。彼女はそのことで癇癪を起こし、部屋中の柔らかいものを掴んでは無造作に投げ込んでいた。なだめるより荷物を取りに行ったほうが早いと思った私は、彼女の財布から免許書と、伝票番号が書かれたメモ用紙を取り出し、依然パニックを続ける彼女を尻目に家を出た。これで何度目だろうか。コンビニへ足を進めながら、ふと、彼女の免許書をみる。私と付き合う直前に更新したという。写真写りの悪さに定評のある免許写真であっても、チャームポイントと豪語していたシミひとつない白い肌やパッチリと二重に開いた目は健在で、初見時は彼女だけプリクラでも使ったのだろうかと思ったほどだった。既に何度か自損事故をやっているとは思えない自信たっぷりの表情も魅力的だった。コンビニに着いた私は、彼女の代理である旨をつげ、彼女の身分証と伝票番号を提示する。東南アジア系の店員が雑に目を通したのち、手のひらに納まるくらいの小さな箱を手渡された。大方、何らかの抗鬱薬睡眠薬といったところか。もう個人輸入なんて碌な薬は買えないだろうに。彼女は以前通っていた心療内科で、幼少の頃の知人と顔を合わせてしまったトラウマから病院に行けなくなっていた。その程度のことがトラウマになってしまうくらいには、過去の彼女は輝いていたのだろう。帰宅すると、彼女の癇癪はいくらか収まっていたが、私をみたとたん涙をボロボロこぼしながら謝罪の言葉を口にし始めた。「ごめんなさい、ごめんなさい。いつもいつもこんな……嫌いになったよね」「そんなわけないでしょ。ほらコレ」と小箱を渡す。受け取った彼女は、すぐに円筒型の文具入れに沢山突き刺さっているカッターナイフのうち、緑色のそれを取り出し開封した。小箱の中には英語とヒンドゥー語が散りばめられたさらに小さな箱が入っていた。その中から手早く錠剤を取り出すと、待ちきれないとばかりに水道まで小走りで向かい一気に2錠、飲み干した。「ほら、もう大丈夫だよ」効果が現れるのはもう少し先のはずだが、薬を飲んで安心したのだろうか、彼女はいつもの雰囲気を取り戻していた。一気に疲れた私は、彼女の手を引いて身を預けるようにベッドになだれ込んだ。手の暖かさに、先程までモノに当たっていた冷酷さ、過熱さは残っていない。ではさっき、部屋で取り乱していたのは、誰なんだろう。私と出会う前の彼女の周囲を嗅ぎ回ってみたものの、癇癪を起こしていたというエピソードは確認できていない。つまり”あの子”を生み出してしまったのは、仕事で悩んでいた彼女に、私の余っていた精神安定剤を与えてしまった私。与えたときは少しだけ後悔したけど、彼女が薬に傾倒していく様子は美しくて、止められなかった。薬によって与えられた正気で、改めて謝罪の言葉を述べる彼女を優しく抱きとめる。どちらに心が籠もっているのかはもうわからないし、そもそも心が籠もっていたところで謝罪では響かない。「薬、今度こそやめましょう。私も協力するから」「うん……ありがとう」月並みのセリフで得られた感謝の言葉は、口を合わせると、かすかな苦味を感じた。

おまじない

「ねえ。そろそろこれ、外さない?」
 思いの外、すんなりと言葉にすることができた。
 これというのは、ベッドの支柱と私の左足首にくくりつけられている手錠のことである。いや、足がくくりつけられているなら、足錠と言うべきだろうか。足錠の輪と輪を繋いでいる鎖は、ベッド上だけでなく、私に当てがわれた6畳間の室内を自由に動き回れる程度には長い。
 これまでは、その範囲さえ自由に動ければ十分であった。
 しかし今は気が変わった、気がする。
 私は彼女が厳重に保管している鍵の在り処を知らなかったので、鍵を外してもらうには彼女に頼む他なかった。
 彼女は、ベッドで仰向けになっている私の顔をじっとみる。そして言った。
「うん、いいよ。ちょっと待ってて、鍵をとってくるから」
 その口調もまた、不自然に思えるほど自然なものであった。
 鍵をとってくるような、短時間で済む用事でも、彼女は部屋のドアはしっかりと閉じて出ていった。染み付いた習慣だった。
 いま自分がどういう表情をしているのかわからなかった。
 あのとき、行き先を失い群衆の中で蹲っていた私をすくい上げてくれた彼女に、願い、願われ、実現した、足錠というおまじない。いわば私達の関係の象徴のようなものである。これを終わらせるということは、何らかが変わってしまうということを意味している。それが何なのかもわからないまま、私は彼女に足錠を外すように頼んでいる。彼女は、どう考えているのだろうか。
 私は天井に視界を映した。白いシーリングライトの中には沢山の羽虫の死骸がある。あの死に方は、虫達にとってはどういう位置付けなのだろうか。
 ドアが開いた。
 彼女は一言も発さず、一直線にベッドへ向かう。膝をのせ、手に持った鍵の先端を足錠に向ける。私は天井を向いたまま、彼女の重みによるベッドの形状変化と、伸ばしていた右足に触れた彼女のジーンズの感触でそれを感じ取った。
「じゃあ外すけど、本当にいいのね?」そう言って、彼女ははじめて私のほうに顔を向けた。私も体を起こして、彼女の顔をじっとみる。
 彼女の瞳は、ゆらゆらと揺れていた。表情も平静を保っているようにみえて、柔らかさを完全に失っていた。共に、この生活中には見られないものだった。
 途端に息が苦しくなってくる。私は、この足錠を外した後のことを考える。この足錠をつける前のことを思い返す。こうなるに至るまで、自分の中でどういう気持ちが湧いては消えていったのだろうかを、改めて振り返ろうとする。でも彼女の苦しそうな顔をみると何も思い出せなくなってしまう。たしかにあったはずなのに。ああ、そうだ。きっと幼少から記憶の奥に刻みつけられ続けてきた世間一般の義務感的思想による、一時的な気の迷いだったのかもしれない。なんとなくこのままじゃ駄目な気がする、ちゃんと働いて、ちゃんとデートして、ちゃんと生活をしていかないと。その程度の雑な粒度で、衝動的に思い立ってしまったのではないか。でなければ、あんなにあっさりと口にできるはずないではないか。やはり今、このタイミングで足錠を外すという判断は間違いなのではないか?
 今の私は彼女と同じ、苦しそうな顔をしているのだろう。いっそのことその鍵で私の心臓を突き刺して欲しいという、陳腐すぎる発想まで浮かんでくる。これ以上の時間は無駄だと思った。私は、再び天井に視線を移した。同時に、彼女の口から、息が漏れる音がした。
「……今日はやめましょうか」
 彼女はそう宣言した。それは彼女による弱さの表明ではない。ただ何も言えなくなって目を逸らすだけの人間よりは、言葉にできる彼女のほうがよっぽど強い人間だと、私は思う。
 ただし、はっきりと言葉にしたぶんだけ、彼女は確実に傷ついている。
「うん、そうする。……きて」
 私は、腕を広げて彼女を誘う。飛び込んできた彼女は「好きだよ、大好きなんだよ。こんなものなくても」と呻きながら、私の腰に腕を回し、強い力で抱きしめてくる。
「……うん。わかってる。本当にごめんなさい。私も、大好きなんだよ」言いながら、私もそれ以上の力で抱きしめ返す。これで、彼女の傷を少しでも埋められるのだろうか。
 この生活は、あまりにも長く続きすぎてしまった。長すぎたがゆえに、私達はこれ以外の方法を忘れてしまっただけなのだ。忘れてしまっただけなのだから、ゆっくり思い出せばいい。
 今日の顛末は、お互いに、同じ方向性の思想があるからこそのものであり、私達を終わらせるものには決してならないはずだ。そうでなければ、今抱きしめている彼女の暖かさがこんなに心地良いわけがない。
 彼女が私の体を押し倒す。見慣れた天井とシーリングライトが視界に入る。
 羽虫の死骸の数が、先程より増えているように思えた。

2018/08/05 - 溶解

これはパイプナイト3mg錠×2をストロングダブルレモンに浸している様子です。 f:id:skrgk:20180805212516j:plain

一時間ほど経過した様子です。 f:id:skrgk:20180805222101j:plain

この一時間で様々な想いが、特に自死方面へ衝動がこみ上げてきて、それをエロ方面に発散してやり過ごすなどの過程がありました。

もう少し観察したかったのですが、片方の錠剤が白化し泥のように容器にこびりつき始めたのをみて怖くなったので、溶け切るのを待たずに指ですくい上げながら飲みほしました。

それでは皆さん、絶望の月曜日に向けて、良い夢を。見られると良いですね。

ぼくは、ここ最近は、顔もわからない男性のに顔射されその精飲を舐めて発狂し目が覚めるというような夢ばかりです。 ふざけるな。

30分後。 ……おお、膝を中心にものすごい倦怠感がやってきた。性器が半分に萎んでいる。 起きていながら寝ているときの人体を俯瞰しているかのようだ。

鐘がなり、ひぐらしが西洋の電子機器の川のせせらぎに腕立て伏せを始め、辛子を練り込んだ大地が本棚の横でホコリをためてほうれん草大盛りの家系ラーメンを待っているな。

アイドル観

 アイドルとは、天性の才能とたゆまぬ努力により磨きあがった魅力を、不特定多数に向けて平等に振りまく存在だ。平等に割り振られた魅力を、それが自分だけに向けられたものではないと自覚した上でなお、欲望を超えた、言葉にできない尊さを感じた人間がファンになる。これがアイドルとファンの関係性であって、両者はなによりも特別を嫌悪し、ひたすらに均衡を保つべく立ち回る必要がある。したがって、アイドルはファンに向けるはずだった魅力を特定個人に向けてはならないし、ファンも必要以上にアイドルに近づいてはならない。
 この契約はアイドルに不利であることは否定しない。アイドルは多数のファンからの好意を一人で受け止めなければならないからだ。アイドルとして芸能界で活動していると、必然的に社会の上位に位置する非常に魅力的な人間が周囲に集まってくるだろう。アイドルは、そういった相手に対しても特別な感情を抱いたり、表に出すこと無く常にアイドルとして振る舞い続けなければならない。
 対して、ファン側はアイドルに近づきすぎさえしなければ、自分以外のアイドルを追いかけてもよいし、恋愛をしてもいいし、なんなら家庭をもってもよい。アイドルにとってのタブーは、一般的には極めて自然に行われている行為なのだ。自らの意志でアイドルになることを選び、人間の基本ルートから逸脱することを決めたとしても、一般的な感性をもった人間なら、社会から取り残されていく不安や恐怖は常にまとわりついてくるに違いない。
 ……ぼくがそんな立場であったら、とても耐えられないね。
 そちらは勝手に生物をやっておいて(何なら自身に性欲までぶつけているかもしれない)、そのくせこちらには純潔を求めてくる。アイドル側からしたらたまったものではないかもしれない。しかもここまで徹底して、商業的に成功するアイドルはほんの一握りなのだから、なんとも過酷な世界だと思う。
 それでもこのいびつな関係性が今日まで成り立ってしまうのは、この不平等こそがアイドルがアイドルとして成り立つための要件であるからに他ならないんだよね。
 鋼鉄の意志を貫いて溜まりに溜まった、正負入り混じったエネルギーしか、ファンは摂取できないんだ。
 はっきりいって、ファンは、アナタを、アイドルを人間として見ていない。例えるなら、神かな。
 つまり、崇拝しているんだ。
 関係性を守り続けるアイドルとしてのアナタを崇拝しているからこそ、ファンはステージにたつアナタをみて恍惚を含むため息をつき、足が棒になるまで飛び、喉が枯れるまで叫び、涙を流す。それは、ファンにとってとても気持ちよくて幸せな瞬間なんだ。アナタも、ぼくたちの崇拝を一身に受けて気持ちよくなっていることを、うっすらと自覚しているんじゃないかな。
 崇拝は恋愛感情とは最も遠いところにあるから、ファンはアイドルと結ばれることはないし、結ばれようとも思わない。不平等な関係性かもしれないけど、アナタがアイドルとして在ろうと思えば、永遠にアイドルとして在り続けられるんだ。当然ファンも、アナタがアイドルで在り続ける限りはいつまでも崇拝するよ。
 だから、安心してアイドルを続けてね。