親近感

百合SS Advent Calendar 2017の18日目として書かれた文章です https://adventar.org/calendars/2268


 冷たい雨が降っていた。早く温まりたかった私は少し早足で、それでいて、靴と服を汚さないよう丁寧に歩いていた。今日は私にとって特別な日なのだ。普段ならタクシーを使う距離だったが、この緊張感を雨が洗い流してくれる気がした。傘をさしているから、効果の程はわからないけれど。

 自分の足音しか聞こえない閑静な住宅街を縫うようにして歩いていると、小さな公園を見つけた。ベンチとブランコと砂場だけの小さな公園。それでもきっと晴れた日には近所の子どもたちが集まるのだろう。緊張感を和らげるために、子どもたちの無邪気さの残り香をおすそ分けしてもらおうと思った。

 公園に近づくと、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。明らかに少女の声だった。無邪気さとは正反対の、悩みに悩んだ末に絞り出された声。砂場を容赦なく底なし沼に変えてしまいそうな涙。そんな少女の泣き声には覚えがあった。そうだ、この声は……。

 私は靴と服が汚れるのも構わず、少女と対面するために泥濘んだ公園に足を踏み入れる。小さな公園なので少女はすぐに見つかった。ベンチに腰掛け、傘もささずに、手で顔を覆っている。少女にへばりつく雨粒が涙に見えて、まさに全身で泣いているようだった。

「こんなところにいたら、風邪を引いてしまうわよ」

 声をかけると、ようやく私の存在に気がついたのか顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった表情の奥に、いかにも思春期の少女らしい、みかんのような愛嬌のある笑みがあったことを感じさせる。少女は一瞬困惑の表情を浮かべて、

「風邪を引くために、こんなところにいるのよ」

 と、見知らぬ女性への警戒を含ませた返答をする。私は、彼女に対して既に抱いていた親近感と今の返答から確信を持つ。これは少女によるテストなのだ。私が会話を続けるに値する存在であるかを値踏みしているのだ。俄然、気合が入る。

「どうして?」

「……いきたくないから」

 少女の曖昧な返答に、次のテストが始まったことを察する。

「そっか、それなら仕方ないね。でも、それならもっといい方法があると思うんだけど」

「……お姉さん。わざわざ話しかけてきたのに理由も聞かないで突き放すなんて、いい性格してますね」

「あ、もう聞いてほしかった?」

「……まだ言いたくはないかな」

 少女の心が大分ほぐれてきたことを察する。やはり私が抱いた親近感は間違っていないようだ。つまり、もうひと押し。

「そうでしょ。まあ、話しかけようと思ったのも、私にも似たような時期があったからだし」

「……そうなんだ」

「そろそろ、話してみたくなった?」

 最後のひと押しは、共感。要は、この少女は話を聞いてもらいたかっただけ。そのために包容力のある存在を求めていただけだったのだ。少女は視線を私から地面へ向けると、ぽつりぽつり、話し始めた。

「……好きなことが奪われてしまったのよ。急に、突然。」

きけば、彼女はピアニストを目指していて、実際同年代どころか上の世代と混じっても優秀な成績を残していたようだ。ところが数ヶ月前事故にあい、命に別状はなかったものの、腕を満足に動かせなくなった。 完治するかもわからないリハビリと長期間のブランクはトップレベルへの道を断念するには充分すぎる理由だった。 生きがいを失った少女は、途方に暮れていたのだ。

「ピアノのことしか考えてこなかったの。それなのに周囲の人たちがみんな、別の道もあるからって。もうピアニストは無理だから諦めようって……」

 雨脚が強まるのに合わせるかのように、少女の語りは、次第に勢いを増していった。

「私はまだ諦めたくない。でも、諦めなきゃいけないっていうのもわかってるの。たかだか10年ピアノをやってただけだけど、この世界がそういう世界だっていうことくらいはわかってるつもり」

 私は、別の意味で驚いていた。親近感をいだくというレベルではなかったのだ。感極まった私は思わず少女の手を掴む。

「貴女の手、こんなに雨に打たれてたのにとても暖かいね。どちらの腕もちゃんと生きてる。多少、ピアノ弾けなくなったところでどうってことないわ」

「私は……私はピアノが全てだったんです。これがなきゃ……私は……私はまた……どうしたら……」

「いいから、聞いて。十年くらい前かな。将来を期待されたピアニストがいたの。そのピアニストも貴女と同じように手を怪我して、以降、表舞台からは消えちゃったんだけどね。しばらく自暴自棄になっていたらしいんだけど、今は日本中の小さな会場でピアノを弾いているらしいわ。今日、この近くで行われるから私も行こうと思ってて」

 会場への小さな地図がプリントされた紙を手渡す。

「今の貴女にピアノを聴かせるのは酷かもしれないけど、それでも聴いてみてほしいと思ったの」

 目的が済んだので、少女のもとを離れる。あとは少女の決断次第。

「いや、違うわ……私も頑張らなくっちゃ」

***

 見知らぬお姉さんには迷惑だったかもしれないけど、ああいうのは話しかけたほうが悪い。それでも、ほとんど一方的に話し続けていた私に辛抱強く付き合ってくれたのはありがたかった。一時的に気持ちがすっきりした私はあの後すぐに帰宅した。

 私に対する両親からの干渉は、私が事故にあって以来、小言にとどまっていた。無言で家を出て、びしょ濡れになって帰ってきてもそれは変わらなかった。温かいはずのシャワーも心なしか冷たい。

 こういうとき、私の夢がもう私だけの夢じゃなかったことを痛感し、胸が痛む。

 フラフラ吸い寄せられるように自室のベッドに寝転がって、先ほど手渡された地図を眺める。

 お姉さんの話が本当なら、ぜひ聴きたいと思った。

 それに、お姉さんのことはなんだか信頼できる。お姉さんはなんだか手慣れていて、まるで過去の自分自身と話しているような様子さえあった。なんとなく、1日限りの出会いにはしたくなかった。

 このままでいいと思っていない。生きるヒントが欲しい。少なくとも、この空間に居ても、何も変わらない。

 気づいたときにはクローゼットから服を取り出していた。

***

 会場は小さなバーだった。未成年である私も、すんなりと通してくれた。お好きなところへと言われたのでピアノにできるだけ近いところにしたかったけど、慣れない雰囲気に威圧され、ピアノから最も離れた、二人用のテーブル席に腰掛けてしまった。

 コンサートと聞いていたのでコンクールで着るような服を選んだが、客層は思ったよりバラけていた。まさしく紳士と呼ぶに相応しい老人から、池袋のドンキホーテによくいそうな寝間着に近い格好の若者まで様々だ。

 各々色とりどりのお酒やちょっとした食べ物をつまんでいたので、持ち合わせが少ない上に何を頼めばいいかよくわからない私は居心地の悪さを感じていた。

「キミ、崎本さんがいってた女の子だよね?」

 服装から、店員と思わしき女性だった。崎本さんとは誰なのか、崎本さんがいってたからなんなのだ。それを知らないんだからイエス、ノーのどちらを答えても都合が悪いではないか。考えがまとまらず硬直してしまう。

「あ、驚かせちゃったか。ごめんごめん」

 柔らかい声色に緊張が和らぎ、なんとか返答した。

「えっと、崎本さんってどなたでしょうか」

「え。アイツ、自分の名前も教えてなかったの。カッコつけるのもいいんだけど、ツメが甘いなあ」

 頭を抱える店員を見ているうちに、思考を取り戻していった。崎本さん。心当たりは一人しかいない。

「……あ、もしかしてここの地図をくれたお姉さんでしょうか」

「そうそう。あのお姉さん。一人だときっと緊張しちゃうだろうって、友人で店員である私にフォローするように言ってきたの。彼女の奢りだからなんでも頼んじゃっていいよ。あ、アルコールは駄目だからね」

 「最近の若者は謙虚だねー」と言われる程度の注文を済まし、心の中で念じた。

 ありがとう崎本さん。カッコいいよ。

***

 あの娘はどこにいるかな。今日、一番最初に目を合わせたいお客はあの娘なんだから、来てなかったらどうしようかしら。

 ……さて、カッコイイとこ、見せてあげましょうか。

***

 ステージにあがったお姉さんをみて、「やっぱり」と思った。

 もしかしたら、お姉さんも、私の話を聞いて「やっぱり」と思ったのかもしれない。

***

 夢のような時間だった。メロディに合わせて身体が勝手に動く。様々な客層に向けたものなのか、有名な曲が多かった。聴衆も、その一音一音を心から楽しんでいるようだった。

 お姉さんの演奏は、彼女の人生全てが詰まっているようだった。弾けない苦しみを血の滲むようなリハビリで乗り越え、曲の難所を乗り切った時の笑顔と弾ける汗にいつのまにか見とれてしまっていた。

 上を目指すとか、夢を叶えるとか、一歩間違えれば呪いにもなりかねない束縛から解放された姿。私が目指すべき姿だと思った。腕が熱を帯びるのも時間の問題だった。

 お姉さんの演奏が終わると同時に、叫ぶ。

「私も弾きたい!」

 お姉さんは私に微笑みかけ、椅子をもうひとつ用意してくれた。

「ゲストの紹介ね。この娘も私と同じく腕を怪我しちゃったピアニスト。でも聴いたよね?さっきの彼女の声を!私はそれに応えてあげたい」

 ざわついていた会場から一斉に拍手が沸く。ピアノの前に座った私に、お姉さんが話しかけてきた。

「曲はこれでいいかしら?」

 一瞬呼吸が止まる。それは、私が最後に参加したコンクールで弾いた曲だった。昨日の自分なら躊躇したかもしれない。でも、この演奏を聴かされて、隣にお姉さんがいて、躊躇する理由なんてなかった。

「……はい!」

 演奏は、自分でも散々だったと思う。やはり、思ったように腕は動かず、リズムは乱れミスタッチも多かった。それでも心が暗くなりかけたタイミングで「もっと笑って!」とお姉さんに声をかけられると、自然に笑顔になって、とても心地よい時間だった。

 演奏を終えると、再び拍手が沸く。コンクールの時のような、勝負の世界特有の情念の混じった拍手ではなかった。世界が広がった気がした。

***

「素敵な演奏だったわ」

「お姉さん……崎本さんこそ」

 コンサートが終わると、お姉さんは普通に客席にやってきて、私の対面に腰掛けていた。

「……すぐに気持ちを切り替えるのは難しいと思う。でも、こういう世界があるって知ってほしかったの。少なくとも、私はこの世界で救われたわ」

「……はい。やっぱり、未練がないわけではないです。それでも、今日は本当に楽しかったし、ピアノをやっていてよかった。心からそう思ってます」

「それなら良かったわ」

 崎本さんの笑顔が素敵すぎて、思わず眼をそらしてしまう。これはピアノを弾いている時に見せてくれた笑顔とは違う、と思う。最高にカッコよくて、絶対に、一日限りの出会いにはしたくなかった。

「れ、連絡先を教えてください!」

 お姉さんは、やはり素敵な笑顔で返してくれた。

「もちろん」

***

 少女、夏目さんを自宅まで送ると、私は再びバーに戻った。夜はまだ始まったばかりで、ここからが大人の時間なのだ。

「奏子、中々カッコイイとこあるじゃん」

「そうでしょ。珍しく直感みたいなものが働いたというか、ほっとけないって思ったのよね」

「あの娘の店を出る時の表情、完全に奏子にお熱って感じだった」

「あんな顔されたら、送らないわけにはいかないわ」

「流石に節操がなさすぎると思うんだけどねえ。思春期の女の子のパワーはすごいわよ、まあせいぜい頑張りなさいな」

 立ち上がり仕事に戻る友人の背中を見送り、グラスに手を添える。

 夏目さん。境遇が似ているから放っておけなかったのは事実。単なる人助けであって、一般的な立場から対処したつもりだった。それでも、あまりにも似すぎていたから、あんな予定にもないメロドラマのような演出までしてしまったのだ。良い意味でも悪い意味でも、あの娘の人生を変えてしまった。それでも、あの娘は悪くない。悪くないんだから、あの娘がそのつもりになってしまったのだとしたら、邪険にするなんてかわいそうだ。

 程よく冷えたグラスでも、指先の疼きは鎮みそうにない。さっそく、思春期のパワーに毒されてしまったようだ。  

 なんだか、無性にピアノが弾きたくなった。