おまじない

「ねえ。そろそろこれ、外さない?」
 思いの外、すんなりと言葉にすることができた。
 これというのは、ベッドの支柱と私の左足首にくくりつけられている手錠のことである。いや、足がくくりつけられているなら、足錠と言うべきだろうか。足錠の輪と輪を繋いでいる鎖は、ベッド上だけでなく、私に当てがわれた6畳間の室内を自由に動き回れる程度には長い。
 これまでは、その範囲さえ自由に動ければ十分であった。
 しかし今は気が変わった、気がする。
 私は彼女が厳重に保管している鍵の在り処を知らなかったので、鍵を外してもらうには彼女に頼む他なかった。
 彼女は、ベッドで仰向けになっている私の顔をじっとみる。そして言った。
「うん、いいよ。ちょっと待ってて、鍵をとってくるから」
 その口調もまた、不自然に思えるほど自然なものであった。
 鍵をとってくるような、短時間で済む用事でも、彼女は部屋のドアはしっかりと閉じて出ていった。染み付いた習慣だった。
 いま自分がどういう表情をしているのかわからなかった。
 あのとき、行き先を失い群衆の中で蹲っていた私をすくい上げてくれた彼女に、願い、願われ、実現した、足錠というおまじない。いわば私達の関係の象徴のようなものである。これを終わらせるということは、何らかが変わってしまうということを意味している。それが何なのかもわからないまま、私は彼女に足錠を外すように頼んでいる。彼女は、どう考えているのだろうか。
 私は天井に視界を映した。白いシーリングライトの中には沢山の羽虫の死骸がある。あの死に方は、虫達にとってはどういう位置付けなのだろうか。
 ドアが開いた。
 彼女は一言も発さず、一直線にベッドへ向かう。膝をのせ、手に持った鍵の先端を足錠に向ける。私は天井を向いたまま、彼女の重みによるベッドの形状変化と、伸ばしていた右足に触れた彼女のジーンズの感触でそれを感じ取った。
「じゃあ外すけど、本当にいいのね?」そう言って、彼女ははじめて私のほうに顔を向けた。私も体を起こして、彼女の顔をじっとみる。
 彼女の瞳は、ゆらゆらと揺れていた。表情も平静を保っているようにみえて、柔らかさを完全に失っていた。共に、この生活中には見られないものだった。
 途端に息が苦しくなってくる。私は、この足錠を外した後のことを考える。この足錠をつける前のことを思い返す。こうなるに至るまで、自分の中でどういう気持ちが湧いては消えていったのだろうかを、改めて振り返ろうとする。でも彼女の苦しそうな顔をみると何も思い出せなくなってしまう。たしかにあったはずなのに。ああ、そうだ。きっと幼少から記憶の奥に刻みつけられ続けてきた世間一般の義務感的思想による、一時的な気の迷いだったのかもしれない。なんとなくこのままじゃ駄目な気がする、ちゃんと働いて、ちゃんとデートして、ちゃんと生活をしていかないと。その程度の雑な粒度で、衝動的に思い立ってしまったのではないか。でなければ、あんなにあっさりと口にできるはずないではないか。やはり今、このタイミングで足錠を外すという判断は間違いなのではないか?
 今の私は彼女と同じ、苦しそうな顔をしているのだろう。いっそのことその鍵で私の心臓を突き刺して欲しいという、陳腐すぎる発想まで浮かんでくる。これ以上の時間は無駄だと思った。私は、再び天井に視線を移した。同時に、彼女の口から、息が漏れる音がした。
「……今日はやめましょうか」
 彼女はそう宣言した。それは彼女による弱さの表明ではない。ただ何も言えなくなって目を逸らすだけの人間よりは、言葉にできる彼女のほうがよっぽど強い人間だと、私は思う。
 ただし、はっきりと言葉にしたぶんだけ、彼女は確実に傷ついている。
「うん、そうする。……きて」
 私は、腕を広げて彼女を誘う。飛び込んできた彼女は「好きだよ、大好きなんだよ。こんなものなくても」と呻きながら、私の腰に腕を回し、強い力で抱きしめてくる。
「……うん。わかってる。本当にごめんなさい。私も、大好きなんだよ」言いながら、私もそれ以上の力で抱きしめ返す。これで、彼女の傷を少しでも埋められるのだろうか。
 この生活は、あまりにも長く続きすぎてしまった。長すぎたがゆえに、私達はこれ以外の方法を忘れてしまっただけなのだ。忘れてしまっただけなのだから、ゆっくり思い出せばいい。
 今日の顛末は、お互いに、同じ方向性の思想があるからこそのものであり、私達を終わらせるものには決してならないはずだ。そうでなければ、今抱きしめている彼女の暖かさがこんなに心地良いわけがない。
 彼女が私の体を押し倒す。見慣れた天井とシーリングライトが視界に入る。
 羽虫の死骸の数が、先程より増えているように思えた。